なぜ今、筆者が英語を使えるのか、人生を振り返る①:学部生編

2017/05/25

筆者がどのような経緯で英語を学び、使えるようになったのか、その経緯を説明する。

関西地方の郊外の一般的な所得の家庭に育ち、英語を使えなかった学生状態から出発しているので、近い境遇にある人は参考になるかもしれない。

(続編②:海外大学院編

運命の変わり目だったカナダへの語学研修

私立大学の1年生の夏に大学が募集するカナダのクイーンズ大学の語学研修に1ヶ月参加した。

高校卒業時の英語力はセンター試験で140点台だった。

大学入学時のTOEFL ITPでは498点 (iBT換算で60点弱)だった。

いわゆる英会話の練習はしたことは無かった。海外経験は修学旅行でハワイに3日のみ。

学習塾に行ったことは他教科も含めて無かった。

第一志望の国立大学に不合格になり、気持ちを切り替えて何かしようと思っていたところに、語学研修の募集案内を見つけて参加した。

その時の費用は両親に出してもらった。後に知ったが、お金を借りてまできっかけを与えてくれた両親に感謝している。

自分は高校1年生終わり頃からアルバイトで日常の活動費用を稼ぎ、また大学の授業料は自分で支払っていたが、住む場所と食事などは両親にきちんと与えてもらっていた。

語学研修でハイレベルな大学生に出会って目が覚めた

8月の1ヶ月間だけであり、英語力は根本的に変わらなかったが、学んだものは大きかった。

まず、語学研修に一緒に参加していた自分の大学の国際関係学の学生のレベルが高かった。

(多分)地方の大学生は勉強することをバカにする傾向があるし、自分の学部の学生も勉強していなかった。

しかし、そこで出会った学生は熱心で、自分たちの専門科目をよく学んでいたし、よく議論し合っていた。

自分は1年生だったが、彼らのほとんどは2〜3年生だった。

そのうちの一人は2年後に学部を首席で卒業した。

もう一人はクイーンズ大学に交換留学のために来ていて、卒業後に早稲田大学の修士課程に入った。

その二人には語学研修後も、国際機関へのインターンやボランティアなどを経験した話を聞いたり、留学、勉強、研究について色々と教わった。

さらに、慶應大学を卒業し、東京大学の博士課程に属していた人もなぜか語学研修に参加していた。

1日に英語の研究論文を50~60ページ読むと聞いて、当時の自分とレベルが違い過ぎて非常に驚いた。

(まさか、4年後に自分がカナダの大学院で同じようなことをするとは思わなかった。)

その人は後に大学の教授になった。

さらに、秋学期に向けて既に寮に戻ってきていた地元のQueen’sの学生が一生懸命にキャンパス活動と勉強をしていた。

日本の大学の薄い教科書に比べ、分厚い専門的な教科書を読んでいて、海外の学生のレベルの高さに驚いた。

 

こういった刺激を受け、帰国後の日々の自分の過ごし方は一変した。

交換留学を目指し、英語の勉強を始める

「語学留学はきっかけに過ぎない。本当に英語力を高めたり、専門性を身につけるなら1年間の交換留学をするべき」

と語学研修で出会った多くの上級生から聞いていたし、大学の国際教育センターのスタッフからも同じことを聞いた。

語学研修で海外の学生のレベルの高さに刺激を受けた私は交換留学を目指すためことを決めた。

根本的に自分の英語力を変えたのは自学自習だった

当時の交換留学の要件はTOEFL ITP(リスニング、文法、リーディング)でも良かったので、ITPの学習を始めた。

毎日、日中は大学の授業とアルバイトをこなし、大学の図書館で夕方から閉館の22時まで英語の勉強をした。

22時後は近くのマクドナルドで100円のハンバーガーを買って、さらに英語の勉強をした。

大学での英語のクラスは基礎クラスから中級クラスに上がり、リスニング、スピーキング、ライティング中心になった。

しかし、毎日2時間リスニング、1時間リーディング、1時間文法の勉強をしていた自習がやはり一番の効果があっただろう。

TOEFLの勉強や勉強方法に関して先生はおらず、今から思うと勉強効率はよく無かったが学習量で押した。

1年生の冬に受けたTOEFL ITPは入学時とほとんど変わらず500点だったが、半年後の2年生の春に557点に到達した。

TOEFL iBTも夏に受験し初受験で76点 (R20 L19 S18 W19)を取った。

2年生の秋に交換留学の選考があり、カナダのブリティッシュ・コロンビア大学への交換留学生として合格した。TOEFLの点数は微妙に足りないはずだったが、成績と情けで多分受かった。

交換留学までは専門科目、奨学金、TOEFL iBT、アルバイトに奔走

自分の大学では商学を専攻していたが、交換留学では経済学を学びたいと思っていた。

国際経済学の基礎を受講した時、教授からグレゴリー・マンキューの経済学の教科書を紹介してもらった。

内容は非常に分かりやすく、経済学の面白さ・重要さに気づき、留学先で勉強したいと思った。

しかし、まだ知識はほとんど無かったのでマンキューの800ページ近い英語の教科書を半年かけて読んだ。

また、英語力も足りないと分かっていたので、リスニング、リーディング、スピーキング、ライティングを継続的に取り組んだ。

図書館に置いてあったFinancial Timesも難しかったが毎日読んでいた。

そして、一番の問題は交換留学に受かったは良いが、留学資金が全くないことだった。

両親は語学研修で相当無理をしたみたいで、交換留学の資金は出せないと始めから言われていた。

交換留学生としての辞退は基本的にできないので、奨学金を受け取ることを絶対にしなければいけなかった。

勉強、英語、日銭を稼ぐアルバイトと毎日頑張った結果、2年生では学年でトップ3番くらいの成績を出した。

そして、大学全体の交換留学者から3人がもらえる100万円、成績優秀+所得制限のある奨学金の30万円、学部の成績優秀者として20万円、カナダ大使館から10万円で合計170万円を受け取った。

100万円の奨学金の選考では面接があり、図書館で借りた分厚い海外の教科書を持ち込んで、自分が留学の準備ができていることを必死にアピールしたことを覚えている。

こうして、3年生の秋から無事に交換留学へ行けることになった。

ただ、自分自身の力ではなく、色々な人のサポートを受けたからだった。

アルバイト先で事故を起こし、留学を諦めかけた時にその時の店長が励ましてくれたり、奨学金が支払われるまで祖父が一時的にお金を貸してくれた。

交換留学先では予習、授業、復習の日々で英語力を磨いた

交換留学では毎日新しい友達を作り、ホームシックなど一切なく、非常に楽しかった。

長期で海外に初めて出るまで、日本で私は周囲から疎まれていると長年感じていて、私の性格や考え方が悪いのだと思っていた。

しかし、ブリティッシュ・コロンビア大学で日を増す毎に友達が増え、私がグループの中心に入れるようになった時に初めて気づいた。

好かれたり嫌われたりするのはどっちが悪いとかではなく、単にお互いの好みや価値観の問題だ。とても単純な真理だが、海外に出て友達ができて自分を認めてもらうまでが気づかなかった。

日本で人間関係に上手くいかなければ海外に出れば良いと今でも思う。その人間性を認めてくれる人たちが海外にはいる。

一方で、大学のいくつかの授業では苦戦した。

TOEFL 80点の状態で留学したので、授業を満足に理解できるほどの英語力は無かった。

特に、アクセントの強い先生や黒板に書かず口頭で説明する先生の授業は辛かった。

(しかも、大学3、4年生レベルの経済学の授業を取ったが、自分で学んできたのは1年生レベルまでだった。)

開発経済学の授業で、他の生徒が簡単だったと言った回があったが、自分は全く分からずに90分が過ぎた時があった。

その時は絶望して、授業後の教室でずっと悔し泣きしていたのを覚えている。

それでも成績は取りたいと思っていたので、深夜1時まで空いている図書館で予習と復習、試験期間中の1ヶ月間はキャンパス内を出なかった。

無事に交換留学中の成績は平均で86点を取った。

英語力も秋学期を無事に終えて、冬学期に入ってから良くなってきたのを感じていた。

交換留学先の生徒と教授は凄かった

スペイン人で経済学の名門、ポンペウ・ファブラ大学出身の女性教授の授業を受けていた。

ただ、授業が自分には難しかったので、オフィスアワーに行き、分からなかったところを毎回相談していた。

ある日、「どうやって先生は英語をできるようになったんですか?」と尋ねた。

「自分の母国語に頼らず、とにかく英語のみをひたすら使うことよ。そうすればいつか上達する。」

「先生は普段、頭の中で考える時はどちらの言語で考えるのですか」

「話題によるけど、自分は両方の言語で考えている」

また、国際金融論のインド出身の先生は私が自分の英語があまりに拙くて説明を諦めかけた時に、「Come on. keep going. It is good for your English.」と言って、説明を続けさせてくれた。

他の生徒たちも留学生の私を英語学習を応援してくれ、カナダの人たちの寛容さ、暖かさを感じた。

そのような支援に報いようと、私は交換留学中は自分の大学への報告書を書く時以外、ほとんど日本語を使わなかった。

また、発展途上国の女性支援を行っていたイスラエルの女学生や紙幣のインフレーションを経験したメキシコの学生などから真剣に大学で学ぶことの意義、そして学んだ知識を将来どう活かしていきたいかなど、色々と刺激を受けた。

初め自分は発展途上国の経済援助に興味があったが、そういった国々で経験を積み、大学で真剣に理論を学びにきた学生を見て、自分の思いと経験は浅かったと気づいた。

むしろ、バブル景気崩壊後、1990年後半の「失われた10年」を過ごしてきた世代だったので、先進国の経済成長と安定を学ぶべきと思った。

そして、私は無事に交換留学を終えて帰国した。

1年だけだったので経済学を学び足りていない、再び海外の大学の環境で色々と学びたいと思った私は大学院に向けて準備し始めることにした。

その後の英語の勉強に関しては筆者が英語を使えるようになった人生を振り返る②:大学院編を読んでほしい。